あたりまえに高性能で便利なものに倦むと使えないものを使う機会を買いたくなる仮説

ロモという全く使えないカメラが流行したことがありました。

デジタルカメラが普及してそろそろフィルムカメラが無くなってしまいそうな頃です。

 

ロモの使えなさっぷりは酷いものでした。写るかどうかはフィルムを現像してみるまでわからない。どんなふうに写っているかも現像してみるまでわからない。

 

ほとんどカメラとして用を成さないカメラでした。

 

そんなロモのぼんやりした画像が面白いとされ、歪んだ画像や歪んだ色彩がいわゆるトイ・カメラの魅力として評価されていました。今でも薄い色彩とぼんやりしたいびつな画像はオシャレだとされています。

 

こうしたトイ・カメラの何が面白いかといえばまさに「使えない」ところです。だから流行のはじめの頃に何とか使おうとして工夫することを楽しんだのは「使える」カメラできちんとした写真を撮ることがあたりまえになっていた人々でした。

 

きちんと設定すればだいたい設定したとおりに、意図したとおりに写真は写る。そんなカメラばかりになってしまったので、意図したとおりに写らないということはとても新鮮に思えたのでしょう。

 

 

というわけで「使い辛い」とか「全然だめだめ」という評価が高まるほどに、期待も高まる次第であります。ロモっぽくてオシャレだという感想が出て来てもよさそうなのですが、ロモ・ユーザーとは隔絶されているユーザーしかいないのでしょうか。

 

かくいうわたくしもロモは使ったことがありません。