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土木技術の発達と都市の成立(仮)

近世城下町を挙げるまでもなく、現代の都市の多くは沿岸部に発達している。外港からの流通経路の確保、内陸部への水上輸送と鉄道網。いわゆる「大都会」の多くがウオーターフロントに展開している様を思い浮かべると、この原則に依らない都市に疑問が生じないだろうか。

 

どうして、古代の大都市であった平城京(奈良)も、平安京(京都)も、内陸の盆地に建設されたのだろう。

 

古代都市が揃って内陸部に展開したとは限らず、難波宮大津宮などが水上交通の要に位置したことは知られている。もちろん、太宰府や鴻臚館などの古代の設備が海上交通の拠点として意識されていたことも明らかで、ウオーターフロントが重要であったことには変わりないはずなのだ。現代的には平地が広く、港湾都市として発達できる沿岸部にこそ都市が築かれるべきだろうと考えられる。

このところ近世を通した地形変化をつらつら見直していて、ウオーターフロントが中世末から戦国期まではほぼ「使えない」土地だったらしいと考えられることに思い至り、古代の都市の設置場所の謎の一端をつかんだ気がしたので、メモしておきたい。既に多くの学説や議論が既出かもしれないが。

博多、新潟を挙げるまでもなく、遠浅の平野部はウオーターフロントとしての潜在価値はあれど大土木技術の発達以前は不安定な流され易い場所であり、少なくとも恒久的に都市を建設する対象とはとらえられなかった可能性が考えられる。さらに、いわゆる風水に類する都市建設の手法からふさわしいと判断できる立地条件は、日本では主に盆地とならざるを得ない。

かようにして、不安定なウオーターフロントではなく、「四神相応」などの概念で伝わる古代の都市建設手法、というか都市計画の教科書に従って選定された場所が古代の盆地に展開した都城ではなかっただろうか。

土木技術の発達に従い、治水工事や地盤改良などが可能となってはじめて、現代の沿岸部の都市が成立できたと考えられる。少なくとも中世段階までは沿岸部の平野にはだらだらと低湿地が広がるなかに、小高い土地が点在する世界であったかもしれない。そうした台地の上は、だいたい弥生時代からの集落遺跡が埋まっていたりする。

また、古代末には気候変動があったらしく、海水面の下降とともに中世初頭には台地からかつての低湿地周辺へ居住地を移していることが知られている。福原などウオーターフロント開発に先鞭がつけられた時期が古代末であることと関連があるかもしれない。鎌倉で鎌倉幕府が開かれた背景には、技術的な側面と気候変動の影響が推測できる。

 

そんな感じで、古代のちゃぷちゃぷ低湿地と台地の上の狭い土地で構成される世界で、都城を教科書どおりに実現しようとしたら現在の位置になった、のではないか。これまで腑に落ちる説明を受けた記憶がないが、なぜ古代ではあの場所に「みやこ」を建設しようと考えられたのかという謎に迫れるそうだ。

 

ウオーターフロント開発は、要は沿岸部の埋め立てと上流の治水の土木タッグの成果と言い換えても構わないだろう。広く知られるとおり、大土木事業で埋め立てられたスーパーウオーターフロント江戸に対しても、江戸幕府が初期の段階で利根川の大改修という大規模な治水工事を行っている。古代の都城もその当時なりの技術で最も力を入れて整備したのは治水であったらしいが、やはり技術的にも都市計画手法的にもウオーターフロントは相容れなかったものかもしれない。

 

ウオーターフロントに高度に発達した土木技術を前提とした都市を発達させることを選択して以来、土木と治水が現代の日本を形作っていると言い切ってもいい、かもしれない。