見えている景観はいつの時代のものなのか

京都、奈良へゆき古い寺社を訪ねると「古代の雰囲気」や「中世の雰囲気」を味わったような気持ちになり、日本の文化を満喫したことに記憶が構成されて、ああ織田信長もこの景観を眺めたのだろうなどと漠然としたうっとり感に支配される。

いや、まて、たぶんそれは間違っている。

 

例えば京都御所である。古代、あの場所に御所はない。土御門東洞院の位置が御所として整備されるのは中世以降と考えられている。そして紫宸殿の南側を日華門、月華門、南門と回廊で囲む配置は近世初頭に考証された結果である。それ以前は日華門と月華門はなぜか厳然として維持されながらも回廊に囲まれた南庭はあやふやな状態が続いたようである。

先日の当麻寺でも痛感させられたばかりである。近世期に多くの名刹が改修を受けており、現在の景観は建築当初のものではないことがほとんどなのだ。しかしながら、ぼーっと眺めているとどれもみな美しい日本の伝統にしか見えない。

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当麻寺中之院の庭園。左側の茶室は後西天皇のために整備されたとされる近世の建物、右奥の三重塔は奈良・平安時代。冷静に眺めるとカオスである。もちろん、これはこれで美しい。

 

中世から戦国期の景観の手掛りになりそうな現存事例を探すと、確かになにがしか残った建物が存在はするのだが、多くはやはり近世期に改修されており景観としては近世の状態として考える必要がありそうなのだ。

戦国期に多用されたとして流行の懸造も、現存の清水の舞台は近世初頭の建築である。清水寺の舞台はそれ以前から存在は知られていたので懸造の技法自体は存在していただろう。ただ、現存のようなゴツい構造は近世以降であろう。平安末から鎌倉期の建築とされる投入堂の軽快な、現代の感覚では不安を覚える華奢な構造からスタートして、おそらくは幾多のトライアルが頓挫し(要するに構造的に保たなくて現存していない)たと考えるべきなのではないだろうか。

 

では中世から戦国期の実際の景観はいかなるものであったのか。現存事例は実際に存在しているという圧倒的な説得力を持つが、そこからどうやって建築当時の状態を類推するか。建物の建築年代を根拠として周辺の敷地計画や景観まで全てを肯定することは、それが近世以降の改変に基づくと知ってしまった以上は避けるべきなのだろう。

しかし、具体的にどうやって、というのがやはり難しい。茶色く煤けた古代の建築が日本の侘び寂びの心ではないと知ってしまったからには、建築当初の姿を意識して捉え直してみるほかないのかもしれない。

 

そんなことを考えさせられる年末でした。