ケーキをどうぞ
学生のころ住んでいた下宿は大家さん一家の住宅と一体の造りで、そのころ既に木造の古い下宿はすっかり人気もない時代で、大家さんも離れた場所に住むようになっていた。
住宅部分には、だから、ときどき大家のおばあさんが日中を過ごしに来ていて、近所のお友達のおばあさんが集まっていた。
その日はたまたま、午後が休講で昼から台所を使おうとしていた。自室には湯沸かしポットがあったものの、ガスコンロで湧かすほうがだんぜん早い。やかんを火にかけながらぼんやりしてたら、おばあさんがひょっこり現れた。
「あんた、ケーキは食べる?」
実際は地元の訛がっつりで、そのまま文字に起こすとどこだか地名がすぐわかりそうな具合だ。
「え。」
はい、ともいいえとも答えかねて何か口ごもってしまった。ケーキ?
コンビニのケーキは目にするが、ケーキなんて食べる選択肢になかった当時。え、いいの?ケーキなんていただいてしまって、いいの?と混乱する。
「〇〇さん、今日来なかったから、ケーキ焼いたから持って行きなさい。」
〇〇さんというのは、たぶんいつものお友達だろう。焼いたから?ケーキ?
反応の悪い学生など慣れたものだったのか、さくさくと話がすすめられる。
「お皿持ってきなさいよ。」
皿は共同の台所へ置きっ放しだ。自分の食器カゴから皿を持っておばあさんの後をついてゆく。先にガスの火を消したが、まだ湯は沸いていない。
おばあさんの居間にはテレビとこたつ、こたつの上にはお菓子の盛られた鉢がいつものように並んでいる。そして、ケーキ。
ああ、このケーキか。
ケーキって言われると馴染まないが、ああ、ケーキだ。
「2枚あるから。」
そうして持参した皿には2枚のホットケーキが乗せられた。
「ありがとうございます。」
ほっとして、すらすらお礼が出てきた。このケーキならそれほど負担に思わず済みそうだという安堵。脳内で輝いた生クリームの盛られた「ケーキ」像をそっと消す気恥ずかしさ。
台所へ戻りガスの火を着け直しながら、ホットケーキなんて簡単に焼けるはずなのに、自分で作ろうとはしないものだと不思議に思った。どこかで子どものおやつのような気がしていた。焼いてもらって食べるお菓子のように感じていたのだろう。
焼いてもらったホットケーキは控えめな甘さで、しみじみおいしかった。
そして、何で自分で焼こうとしなかったかも思い出した。ホットケーキミックスのふくらし粉の味が苦手だったからだ。いいはなしっぽかったのに、だいなしだ。