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『キマイラ』(ジョン・バース)の影響で読書をしなくなったはなし

さまざまな事象との関係 今週のお題

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」

 

ジョン・バース (著)・國重 純二 (翻訳)

『新潮・現代世界の文学 キマイラ』新潮社、1980年5月

 

 

それまでの自分といえば、活字を読むこと自体は好きだったが、本や文学を読んでいたとはいえなかったのだろう。

 

ぱらぱらと、暇つぶしにSFマガジンを繰っていた時だった。まだSFマガジンがちょうどよく太っていて時間をつぶすには十分だったころの話だ。海外文学の書評のコラムにたまたま目が止まった。本来紹介されていた本が何だったのかは忘れた。コラムの冒頭で「現代文学の極北」として触れられていたのがジョン・バースという作家と『キマイラ』であった。

 

ふうん。極北って何だろう。文学か。芥川龍之介みたいなものを想像した。たいへんお粗末な文学観である。だいいち聞いた事がない作家だ。それよりも掲載されていた『シャニダー』(デイヴィッド・ジンデル)のほうが面白かったので、文学のことは忘れた。

 

しばらくして、たまたま図書館へゆく機会があった。必要な本を探して、探すついでに、ふと、あの極北のことを思い出した。聞いた事の無い本だったが、図書館にあるのか、ひとつ調べてみよう。検索結果にはあっさりと『キマイラ』が登場し、ジョン・バースのいくつかの翻訳された本と翻訳されていない本の情報が現れた。ふうん。まだ貸出冊数に余裕があるし、小さい本だから、という程度の理由で『キマイラ』ジョン・バースを借りた。面白くなくても、そのまま返せばいい。タイトルから『キマイラ』(夢枕獏)みたいなものかと想像していたので、余計にすぐ読めると考えていた。

 

同名作品があるので、以下『キマイラ』はジョン・バースの『キマイラ』を指す。

 

ところで、このまま『キマイラ』について話を続けるとして、簡単な内容紹介をする必要があるかどうかが問題だ。実のところ、まったく想像がつかない。これまでに『キマイラ』を知っている、読んだ事があるという人にほとんど会ったことがない。ジョン・バースについても。『シャニダー』(デイヴィッド・ジンデル)もだが、まあ、これは別によかろう。

読んだ事を秘するべき本なのか、大学で英米文学を専攻した方にとっては誰もが知っているレベルで、人生に影響を受ける程のものではないのかもしれない。しれないが、ともかくも自分はジョン・バースにも文学にも遭遇しないクラスタで過ごしてきたので、いわばオー・パーツのように遭遇したのだ。先の「ほとんど」の例外が英米文学を専攻したという方々で『酔いどれ草の仲買人』が知られていた。評価は、まあ、極北。

 

標題のとおり『キマイラ』こそが「人生に影響を与えた一冊」である。図書館で借りたその小さな本は、その後も繰り返し読まれることになる。都度きちんと返却したことは、お断りしておく。

当時の衝撃をなるべく正確に表現しようとするならば、あらすじは些細なことなのでここでは省略する。そして、何がそれほどに影響を与えたのかはひとことで言い表せる。

 

『キマイラ』から受けた影響は、メタ思考だ。

 

『キマイラ』は中編三編のアンソロジーであり、それぞれ別の物語である。物語には語り手がおり、語り手側のネタは物語側には現れない。しかし語り手側からのネタばらしは、また別のメタ物語として成立する。三編を通読すると、物語に巻き込まれている語り手が、物語をコントロールできるのか、というメタな主題が浮かび上がる構成だった。

 

『キマイラ』が特に構成力にすぐれた作品ということでも、たぶん無いのだろう。ただ、ちょうど自分がメタ思考を理解すべきタイミングで、この本を読んだというだけのことだろう。もしも、これからはじめて読むとすれば1970年代に書かれているこの作品は、もう陳腐な内容かもしれない。今でもネット上の情報も乏しいのだから、日本で大勢の読者がいるとも思えない。

 

メタ思考を覚えるには適したガイドは他にもっと適当なものが存在するはずで、読むべき価値のある文学は他にもっとたくさんあるはずなのだ。だが、ちょうどタイミングよく出会う、そのタイミングのほうが恐らくは重要で、人生に影響を与えた一冊としてとりあげるならば『キマイラ』になる。

 

三編のうち、最後の『ベレロフォン物語』が最もすばらしかった。英雄潭のエピソードをなぞることで英雄にならんとするベレロフォン。だが、ことごとく思惑が外れる。語り手も物語も手段も目的も何もかもが裏返しになり、混沌を極め、ベレロフォンはベレロフォンの物語からリタイアを宣言する。しかし、事態は極めてシンプルだ。はじめから語られるに足る人生などない、足跡が残るだけなのだ。この絶望の余韻を持ってふたび冒頭の『ドニヤーザード物語』が語る千夜一夜の物語、続く語られた英雄潭の『ペルセウス物語』を読み直し、ベレロフォンの元へ戻ると、どうだろう。ベレロフォンのリタイアが物語の呪縛からの離脱に見えてこないだろうか。そして、もう一周、もう一周、繰り返すその度にベレロフォンの前の景色が変化してゆくはずだ。人生を生き直すことはかなわない望みであれど、何度でも捉え直すことはできる。ベレロフォンに絶望をもたらした物語が、一方ではベレロフォンの人生を物語として再生するのだ。

 

そして、メタ思考に接した結果が、読書から離れた人生である。本が隠し持っている情報量の多さに辟易として、本をさっぱり読まなくなった。とんでもない影響だ。だから、人にすすめたりはしない。