ゲラルト、壁面にあらわる、しかし。

引っ越しました。物理。

モニタは仕事に使うことにしたので、自宅にモニタがなくなりました。

ゲームできないじゃん。

 

4月も後半になって、そうだ、プロジェクタ買おう。自宅用でとりあえずプロジェクタ買おう。と、またヨドバシで見繕う。以前よりプロジェクタの品数少ない気がするけど、なんでだろう。

 

モバイル用のちっさいプロジェクタ買って、壁に写したところ、なかなかいいではありませんか。やや暗いが、画面サイズは無段階で調節できるし、いいではありませんか。

 

よし、今週末こそは積んであるウィッチャー3を開封して起動するぞ!

ゲラルトがやってくるぞ!

 

 

白っぽい壁面だから大丈夫だと思ったんだけどね。

画面サイズもモニタより大きくできるから大丈夫だと思ったんだけどね。

ウィッチャー3はキャラ操作より、文字を読むことがとても重要なのね。解説とか解説とか解説とか説明とかストーリーとか。さすが原作小説が分厚いだけのことはある。壁紙の表面は細かいデコボコがあるのね。それにモバイルプロジェクタはとっても貧弱なのね。

 

ゲラルトは壁に写る。ムービーもそこそこきれい。しかし、文字が読めない。説明が読めないと、このゲームは遊べない。なんてことだ。

 

平成がはじまるとき、ゲームは雑誌で読む記事だけで、ゲーム機はひとつも持っていないからゲームタイトルと想像上のゲームだけが楽しみだった。平成の終わるころ、それなりにゲーム機を揃えて、好きなゲームソフトを揃えて、好きなようにゲームができるようになっているなどとは、まったく想像もしていなかった。生きててよかった。

 

もっとも、ゲーム機とゲームソフトが揃ったら、ゲームする時間が無いなんて事態も想像してなった。今年はゲームの年にすると決意して、半年ぐらいすぐ経ってしまいそうだ。なんてことだ。

 

つまり、平成はゲームをエンジョイするための助走期間だったのだ。令和元年、記念すべき10連休はゲームのためにある。

 

連休に備えてモニタ買おう。

 

今週のお題「平成を振り返る」

どうして家庭用のお安いシュレッダーはすぐにヒートアップしてしまうのだろう

今週のお題「卒業」

 

卒業だと思っていたら、次のステージへの入学だった。

だいたいそんな感じ。 

 
 
で、シュレッダーの話。
シュレッダーがオーバーヒートしている隙を縫って仕事する感じになっている。意外に復活するまで時間がかかる。

おらにゲームの時間をくれ、5分、じゃ短いから1時間ぐらいでいいから

室温7度で電気毛布と羽毛ぶとんにくるまってやりすごす、着る毛布の三賢者を目指す梨羽です。

今年はゲームの年にする。そう誓った昨年末から、あっという間の2月も後半。おまえはいままでにあそんだげーむのじかんをおぼえているのか。

ゼロだ。

ほぼほぼゼロだ。

記憶にある限り、限りなくゼロに近いゼロだ。

 

 

ゲームしないで仕事ばっかりしてちゃ、バカになっちゃう。

せめて週に1時間でいいから、ゲームする時間を確保しなくては。

文明とはあたたかいお湯のことである

2018年は梨羽さんの文明開化の年でした。なんと電気ポットがやってきた。

すばらしい。

カップ麺がすぐできる。日々のお茶も不自由しない。そして湯たんぽに湯水のごとく湯を費やすことができる。

すばらしい。

 

あらたに通う銭湯も開拓し、広い湯船で過ごすチャンスも増えた。

すばらしい。

 

これ以上望むべきものがあるとすれば、いますこし、ゲームする時間が欲しい。結局、今年は積みゲーの年になってしまった。年明けにはエアフォースワンエースコンバット7も待っている。

 

今週のお題「2019年の抱負」

2019年はゲームの年。

 

では、よいお年をおむかえください。

それはせんせい

「せんせい」といえば先生、ではなくて「せんせい」。それは「せんせい」。

タカラトミーの製品ページへリンクをはってしまえば一瞬で記事が終わる。

www.takaratomy.co.jp

100円ショップで小型の類似品を見かけてから、そういえば簡単なメモには「せんせい」が便利だよな。またまた、何かの用事のついでか、特に用事もないときだか忘れたが、ヨドバシへ出掛けたときに探してみた。

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まだだ、まだ終わらんのだよ。

「せんせい」はもう、かつて知っていた「せんせい」ではなかった。夏目漱石みたいだな。なにしろ姿形に面影は残るが、ほぼ別モノであった。

 

先ず、アプリ連携を詠う機能強化。もう勘弁してよ、アナログで十分だよ。だが時代に取り残されないためにはアプリだ。

次に、コレジャナイ感が膨らむ、マイクロカプセルシート。マイクロカプセル化されたらしい磁性体がなめらかな描線を実現します。なめらかで繊細。磁性体封入シートは交換可能、とよろしいことばかりのように見える。しかし、ぺにゃぺにゃのシートが頼りない。かつての「せんせい」は100均の類似品同様に堅い磁性体封入ボードでガツガツ描けたような記憶が。

なぞって描くお絵描きシートや文字板はさすがに不要なので箱に戻した。

最後のナニコレイベントはキャリブレーション作業。キャリブレーションとは表現されていないが、これはキャリブレーションだ。磁性体を安定させるために、説明書に従って全体を黒く塗っては消去を数回繰り返す。スタンプでぐりぐり黒く塗り、消去。ぐりぐり、消去。ぐりぐり、消去。だんだん楽しくなってくる。

あれ、いま、「せんせい」楽しい。

知らない「せんせい」だけど、これはこれで楽しい。

 

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丸と四角のスタンプ、ペンが付属している。

80年代風に描いてみた努力。8ビットマシン時代のカラーを再現してみたらあんまりにもあんまりだった。21世紀の弱い心は白黒加工でもしないと耐えられない。

 

新しい「せんせい」はふんわり系の描写が得意かもしれない。ここまで引っ張ったのなら作例を出せと思うよな。だが、無い。描いては消し、描いては消し、残らないから楽しいのだよ。それに、意外と写真に撮ってうまく加工するのは難しい。そのうちチャレンジしよう。

 

 

さて、アプリ連携機能まで付くのなら、タブレットPCみたいなんでよくない?と連想するとおり、店頭にはカラータブレットの専用機的な製品もあった。

oekakiartist.jp

ここまで来るとあと一歩でiPadと専用ペンシルでお絵描き。

 

「せんせい」に求めるものは、そんな高度に発達した魔法の力じゃないんだ。電池が切れたら消えるような魔法じゃないんだ。薄くはかないふらふらした線を描いてみたいときもあるじゃないか。

だいいち、「せんせい」は電気が要らないんだ。ゴミも出ない。すばらしいじゃないか。

旅のまにまに湯のまにまに

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「まにまに」が気になる季節。紅葉の錦といえばまにまに。

秘湯を訪ねた記録を残そうとしているが、再訪してまったくこの絵は違うことがわかったり、また記憶に頼って描き直したりしているうちにすっかり秋も深まってきた。

まにまに。

 

 

今週のお題「紅葉」

百万光年の彼方からカメラ目線でアイコンタクト

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氾濫するインスタ映えする自撮はみんなカメラ目線。自撮すればカメラ目線になる、そう信じていたわけです。ちょっと上目遣いなのは、そういうかわいく見せるテクニックだと思っていたわけです。

 

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自撮してみればわかるとおり、画面見て自撮すれば目線はこう、下を向いている。だいたいスマホのカメラは縦位置では本体上部に付いているから、それはそうなのだ。カメラ目線で写るためには、カメラに視線を向けなくてはならない。あたりまえといえば、あたりまえだが、これは何とも難しい。

 

で、オンライン会議とかどこの宇宙世紀かといえば、もう普通に運用されている。そして、画面越しの会議こそ視線をどこに向けてよいのかわからない。

先様が映る画面に視線を向けると、明後日の方向を見ているヤバい人にしか見えないおれさまがモニタに映る。

 カメラに視線を合わせると、画面内のおれさまは正面を向いてカメラ目線で映っている。しかし、画面の先様が見えない。視界のハシで何とか捉えるレベル。

どうすればいいのだ。

 

 

おかしい。アニメとかでは、たくさんのモニタの先と視線が合っている。宇宙世紀ならモニタ越しに会話しながら常時アイコンタクトしてたじゃないか。

 

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例えばこんな画面で、それぞれのモニタに映る対象はカメラ目線。

 

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画面の向こうと対話するシーンでは、手前のインカム着けたヒトもカメラ目線。

 

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これ、どうやったら成立するんだ?このヒト、どこのカメラ見てんの?ずっとどこかのカメラを睨んでいるなら、それぞれの対話相手とは目を合わせていないってことになる。アイコンタクトしないの?

 

テレビ会議用にシート状の半透明カメラがあれば解決すんじゃないかと、つらつら考えてみた。

 

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こういうカメラ。モニタがそのままカメラになるシート。モニタにシートをペタッと着けたら、モニタがカメラ。はい、両者モニタを睨めば視線が合う。

レンズ無しか、極薄いレンズの付いた撮像素子がシート上にばらまいてあるカメラとかできないものだろうか。昆虫の複眼のひとつひとつがシート上に粗くばらまいてあるような感じだろうか。シートが完全に透明でなくとも、粗く点状に何かがばらまかれた程度ならばシート越しの映像は見えるだろう。現状のPCの処理能力なら分散した撮像素子のデータを1枚の画像に再構成するぐらい問題なさそう。

 

端末の上の方にあるカメラに目線が向かうから見上げる構図になりがちな自撮も変わるはずだ。シートカメラならモニタ面をガン見できる。

 

既に製品化されていないか探したら、シート状のカメラというものは存在するらしい。うーん、でもこれじゃない。

nlab.itmedia.co.jp

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モニタ中央あたりに設置するカメラがあるだけでも、かなり違う印象になるんじゃなかろうか。カメラモジュールなんて、スマホの片隅に納まるぐらい小さくなっているから、これなら見た目はアレだとしても既にありそうだ。

 

動画配信とかビデオチャットも視線が合わない画面が気になる。だれか作ってくれないかな。

 

ま、画面の向こうが本当に数百キロ離れた先や、百万光年離れた先だなんて保証も無くて、隣の部屋だったりする可能性もある。初見の画面の先を、説明された場所としてさほど疑わない心理もテクノロジーへの盲信っぽい。

 

 

今週のお題「ゲームの思い出」

ゲームといえばパソコン雑誌の巻末に文字だけがだらだら印刷されたページのことで、何日もかけてこつこと入力して、じゃーん、起動画面が表示されてスタートを押した瞬間に動作しなくなるものだと決まっていた。どこかの文字を打ち間違えているのだ。

文字ひとつの間違いで動作しないとか、しんじられない。なんと融通が利かないんだろう。

ゲームの当たり判定が理不尽であろうと、コズワース*1の価値観が人類とは敵対していそうで納得いかなくても、所詮はゲームなのだ。やつらは融通が利かない。徹底して。そういうものだ。

だが、少なくとも画面の向こうのヤツらと視線は合う。カメラ越しであっても、なぜか視線が合う。対面しているかのような安心感だ。反応は理不尽だが、こっち見てる感の効果は絶大だ。グラフィックがリアルになるほどに、画面の向こうと視線が合う意味は大きいのかもしれない。

技術的には「テレビ電話」など造作ない時代のはずだが、いまひとつ普及しないのはカメラ越しに視線が合わないからかもしれない。

*1:Fallout4に登場するコンパニオンロボット