これが無いからあのドールハウスはすごい
はてなブックマークのトップに躍り出ていた記事に目を見張る。すげえ。
あまりにすごい。
下宿の間取り解析に現を抜かしてきているだけに、もちろん団地の間取りやハウスメーカーの間取り、果てはマンションの間取りのチラシで何膳でもおかわりできますとも。
1980年代の憧れが詰まったと推測されているこのドールハウス、一見すると古くさい印象でありながら、非常に新しい。シルバニアファミリーのためにしつらえられたことがわかる部分が「無い」。
感動のあまり、わけがわからない。
そう、このドールハウスの重要な点は、「無い」ことにあるのではないか。
まず、畳の部屋が無い。絨毯をめくると畳がという危惧はなされていたが、たぶん無い。
畳の部屋が無いことで、決定的にそれまでの公団住宅などとは憧れのベクトルが全く異なる。床(とこ)、すなはち床の間が無い。これは日本の住宅史上画期的な問題なのである。
2000年ごろまでは、都心部のマンションであっても畳の部屋と床の間が用意されていたはずである。いつ、床の間が消えたのかということは、実は非常に重要な問題なのであるが、紹介されているドールハウスには1980年の段階で床の間が無い。明治以来、粛々と上層の武家住宅を模倣して誰もが床の間を希求したとされる*1、あの床の間が無い。
当然のように、襖も障子も無い。
かろうじて和室の要素を残している部分としては、鏡台と簞笥が置かれた部屋と、寝室への引戸を挙げることはできる。もしかすると、比較的プライベートな空間に対しては和室の要素が残ったのかもしれない。しかし、寝室はカーテンレールが設けられたモダンな意匠である。しかも、このカーテンレールは、1990年代に普及したタイプではないかと考えられる。全力で洋風にしつらえている感が漂う。
次に、台所が無い。あ、キッチンと呼ぶべきか。
ダイニングテーブルは置かれているが、シンクやガス台といった台所とはっきりわかる設備が見当たらない。他の精密な造りから、作ろうとすれば作れたはずだが、無い。
最新のマンションの間取りではキッチンは独立した小部屋よりはリビング内の出島のような配置が流行していた。当初から作り付ける必要のないキッチンの到来を予言していたのか、単に関心がなかったのか、そこはさておき、キッチン家電による年代特定が避けられている。「住んだことないけど見たことある*2」ふんわりしたリアリティは、キッチンが無いことの影響が大きいかもしれない。
さらに、トイレが無い。
人形だからトイレ要らない、とか、白井晟一リスペクト*3の可能性はさて置き。これもふんわりしたリアリティに関与している要素と考えられる。いきなり和式便器が設置されていた場合のインパクトを想像していただきたい。洋式便器であっても、これも非常に年代の制約を受ける。
あのドールハウスから漂う絶妙なノスタルジーは、あれこれが「無い」からこそ醸し出されているのではないだろうか。
加えて、このドールハウスが日本の住宅史において重視されるべき点を述べておこう。
ベランダへのサッシの外側には、戸建住宅であれば本来はもう少し深い庇が付くはずなのだが、やはり団地が参照されているのかもしれない。団地であれば上階のベランダが庇の代わりとなるため、サッシの上には何もないことが多い。そして、年代感が決定的に現れている部分は、このサッシで、中程の枠によく見ると引手が設けられている。このタイプは1970年代後半から1980年代に普及したタイプのはず。現在は一枚ガラスで引手は枠の端全体が掴めるタイプが普及している。サッシの作り込み具合からも、サッシが強い関心を持たれた建具であったことがうかがえる。木枠の窓のすきま風と闘う時代から、気密性の高い住宅への移行を示しているのだ*4。
折れ曲がる階段は昭和といっても、昭和初期に発達したタイプが源流だろう。各地に保存されている洋館に類似の階段がよく残っていた記憶がある。
見れば見る程、これは新しい時代の洋館としてデザインされていると考えられる。風呂に関しても、昭和初期の洋館の、洋風の風呂からの派生ととらえたほうがよさそうなのだ。
和風住宅をベースに、公団住宅の発達を背景として洋館建築の要素が普及した足跡のようなものを、このドールハウスから読み取れるような気がするが、もうちょっと丁寧に考えてみるべきだろう。
「有る」部分については元記事で語り尽くされているため、勢いで「無い」部分に言及してみた。こんな与太を書いてしまいたくなるほど、このドールハウスはすごい。
黄金の瀬戸内海、向上寺三重塔。
JR三原駅、隆景広場として整備された一角の銅像。「小早川隆景公之像」、ピントが合っていないのか読めない。昭和の夢、瀬戸田耕三寺から船で移動した先は三原。その船に乗る前、瀬戸田港までの道中でたずねた先が向上寺三重塔。
昭和の夢から一転、中世瀬戸内海の繁栄を垣間見るわけです。国宝向上寺三重塔。15世紀に小早川氏も建立に関与したとされる、贅を尽くした最新流行スペシャル仕様の三重塔。
どのへんがスペシャルなのか、と細かい説明。ざっくりと、和様(わよう)と唐様(からよう)が共存していることが特色とされている。唐様は現在は禅宗様(ぜんしゅうよう)と呼ばれる、禅宗寺院に特徴的な様式。建築様式については、大仏様(だいぶつよう)の希少な遺構である浄土寺浄土寺をたずねたくだりで少し触れている。
向上寺三重塔の様式フュージョンがどう凄いかといえば、こう、すごい。
周囲の樹々で引きがとれないばかりに、また超広角レンズで無理矢理な写真。でだ、軒下をご覧いただきたい。軒下の垂木。初重は扇垂木で、端までの垂木が扇の骨のように開いている。これは禅宗様や大仏様に特徴的な手法だ。対して二重からの垂木は並行垂木であり、端まで等間隔に並行に並んでいる。よくよく見れば、組物の装飾も特徴的で細かい*1
往時にはこの三重塔に相当する規模の伽藍が繁栄していたとされるが、その後の時代を経て現存する建物としてはこの三重塔のみが境内に残る。
平成15年に伽藍復興への寄進を募る看板。2017年に訪れた際の写真であるから、15年から16年前の看板ということになるのか。その後、この復興運動によるものか、2010年に本堂が再建されている。今回写真を片付けていて、看板の設置当時の住職の方が「小早川」姓とはじめて気付いた。驚いた。
前回の耕三寺から趣のある選択の結果、案内地蔵が続く道をたどってみた。かの平山郁夫画伯がスケッチをされたという山道らしい。
そこそこ整備された山道をさくさく歩いてゆくと、ようやく塔の本体部分が見えてきた。どうやら、山を登り、向上寺境内の奥からアプローチしてきたらしい。
向上寺正門から塔へ向かうには、この石段を登ることになる。どちらがマシか、という話なのだが、山道のほうが距離はあるが傾斜は緩い。石段は直登ルートなので傾斜はキツいが距離は短い。どちらにしても山が低くなるわけでも、塔が近くなるわけでもない。物理的な問題に変わりはない。
案内地蔵が設けられて推奨ルートとされているのは、高名な画家のスケッチ対象とされた風光明媚な景色と、散策に適した山道ではある。
元のデザインとしてはどうだったのか。おそらくは島の外からも塔が見えるように周辺の樹木は伐採されていたのではないだろうか。門の側から境内へ向かえば、石段の上に塔が現れるという劇的なデザインではなかろうかと想像してしまう。しかし、実際には樹々に遮られてしまい、朱色の塔の本来のインパクトは想像でしか偲ばれない。
船から見えるはず、と目を凝らしていたところ、見える、見えるぞ。三重塔の本体部分がちらっと見える。地図で確認すれば、なんとこれ以上なく港からの船にアピールする配置である。考えての、この配置であろう。
向上寺から港へ向かう道は、恵比寿神社の参道へ続いていた。向上寺に堂于が立ち並ぶ時代の瀬戸内はどれほど経済的に繁栄していたことだろうとか考えてしまう。
恵比寿神社参道入口の石柱は天保年間と江戸時代の年号が認められる。神社が江戸時代にも相当の信仰を集めていたすれば、それなりの経済力が近世まで継続したことだろう。中世交易都市の繁栄といえば堺や博多が知られるが、瀬戸内海の一部に残る塔をしてこれだけのレベルである。堺から博多へは、主に瀬戸内海を経る航路が用いられていた。黄金の日々と聞けば自動的に堺が連想される世代も限られてきたかもしれないが、そんな黄金の中世も瀬戸内海あっての繁栄であろう*2
瀬戸田港からはちょうどよい時間で乗れた三原行きの船に乗る。船室のシートはやけに年期が入って見えるが、見覚えがあるようなデザインでもある。意外に新しいのかもしれない。
晴れた空、白い雲、島に囲まれた海。船は小型とはいえ揺れも少ない。超快適。いいね、船旅。
三原城の天守台をぐるっと見学して、さて、このままJRで博多まで移動する行程。もちろん青春18切符利用。
三原城といえば小早川氏であるが、小早川氏といえば毛利氏。毛利氏といえば大内氏、という連想を無理につなげて、次は博多で五重塔なのである。
船でゆく瀬戸内海と五重塔、耕三寺へ
いきなりの船旅。尾道港から、予定を変更して船上の人となったわけである。
前日は宮島で穴子丼をぱくぱく。さて、翌日に耕三寺へ向かうことは決めていたが、尾道からバスでしまなみ海道をゆくルートを想定。本数が限られていることが気にはなりつつも、まあ尾道まで行けばなんとかなるだろうと、とても楽観している。
尾道駅は工事中。予定どおりに早起きをして、がつがつ耕三寺を巡る気合い十分である。ちょびっと早く着き過ぎてしまってすらいる。遅れるよりよかろう。早く着きすぎたため、なんだ、船に乗れそうなのだ。乗れるなら船に乗ろう。瀬戸内海クルーズだよ。などと、なんとも気楽な勢いで船にルート変更。さいわいにしてお天気がよい。
水上バスのような船で瀬戸田港へ到着。瀬戸田の港から徒歩で耕三寺へ。
耕三寺とは何かについては、まず、公式サイトをご覧いただきたい。各地の著名な建築がインスパイアされた驚くべき空間だ。
早く到着しすぎている。門が閉まった状態。これはこれで貴重か。
いよいよ開門。いきなり、見覚えのある特徴的な肘木。あれは法隆寺金堂インスパイアでは?
奥に見えてくる五重塔。
石段の上に、また見覚えのある特徴的な相輪が。この五重塔こそが室生寺五重塔インスパイア。
耕三寺の五重塔全景。彩色と屋根材が異なるほかは、おおむねよく写し取られた姿。
インスパイア元の室生寺五重塔はこちらで確認できる。
塔の形がよく把握できる立地でもあり、塔を理解するには適している事例だろう。心柱に鋼鉄の円柱を用いるなど、昭和の建物なりの構造であるらしい。
さて、この耕三寺を知ったきっかけはこちらの門。
目にした写真は昭和30年前後に撮影されていたらしい白黒写真だった。姿形はモデルとなった日光東照宮の陽明門に酷似しているが、扁額が異なる不思議な写真。何だこれ、と調べた所、耕三寺に行き当たった。現地の解説によれば昭和29年に「造営に着手」されたらしい。建設当時はさぞ評判だったことだろう。その白黒写真も、おそらくは建設当初の時期に撮影されたものだろうか。
平等院鳳凰堂中堂インスパイアの本堂。もちろん翼廊インスパイア部分も伴うが、やや形態が異なる。残念ながら修復工事中だった。今回は主に五重塔だけを紹介するため割愛したが、耕三寺全体が見所に溢れている。いずれ他の建物や施設も紹介したいところだが、写真が多過ぎて追いついていない。
インスタ映えが気になる方にはこちら、未来心の丘もある。
オシャレなカフェも、全方位インスタ映え空間も揃っている。カフェはおいしそうなメニューに心を惹かれたが、11時開店。船の時間の関係で今回は諦めた。
耕三寺から瀬戸田の港へもどるまでに、思いがけず国宝の三重塔にも立ち寄ることとなった。
趣のある町並みに「潮音山公園登山口」の案内が現れた。いっそう趣のある路地を指している。だいたいにして、こういう趣のある道を選択すると迷うパターン。
パターン通りに、趣のある選択の結果、三重塔へ向かっているらしいが全く塔は見えない。そして、国宝と詠われながら頼りない看板。かわいらしいお地蔵さんも擦れた赤い矢印と合わせてホラーに見えてくる。どこへ案内されているのだろう。
いろいろあって、三原まではまた船に乗ったりもする。顛末と肝腎の三重塔は、次回。
シチュー三昧
市販のシチューのルウがことのほか充実していることに気付いていらい、寒さが深まるに従ってシチューのストックを続けている。クソ寒い夜もシチューが待っていると思えば寄り道もせず帰宅する気にもなる。ならない日もあるがね。
シチューのルウのパッケージには懇切丁寧な作り方が示されている。このまま材料をパッケージのなすがママに揃えて切って煮込んでも、当然のことながらおいしいシチューができあがる。ホットケーキミックスで学んだとおり、パッケージの作り方指南は神である。しかし、何度か鍋をシチューで満たしては、腹に納めて食欲を満たした結果、パッケージのなすがママは面倒になってきた。
多少の試行錯誤の末に、ジップロックに入れて冷凍ストックしておくならこれでいいんではないかという構成を見いだした。そんなわけで、己の食欲のために記録する。
さて、現在スーパーの店頭で手軽に入手できるシチューのルウはおおむね5皿か4皿程度で1単位になるようなパッケージで供給されている。ルウの箱には1単位ごとに密封されたルウが2つ、というのが標準のようである。1人前なら、1度に1単位分のシチューを作ると運用がよろしい。
1 用意するもの
肉:冷凍保存のために細切れにしていたが、面倒なのでひき肉。特に鶏肉なら「もも肉」のひき肉。ルウ1単位に対して300gが目安。
野菜:タマネギとニンジン。これだけ。ルウ1単位に対してタマネギ1玉、ニンジン1本。サイズは細かいことは気にしない。
牛乳またはスキムミルク:ホワイトシチュー系ではパッケージ神のご託宣に従い、最後に適量を加える。
2 調理
あとはパッケージの手順に従って調理する。割愛。
出来上がったら適当に冷まして、ジップロックへ1皿分づつ分けて保存し、冷凍する。
さて、シチューに欠かせないとされるアレが無い。お気づきだろうか。ジャガイモを加えていない。パッケージ神も加えるように強くおすすめしてくれる。しかし、煮くずれてしまうことと、枯草菌の影響が考えられるため、冷凍保存する状態では除外しておくことにしている*1どうしてもジャガイモを浮かべたいときは、解凍して温め直す際に加えることにしている。なんなら、冷凍の皮付きポテトフライでも十分だと思う。
気持ち肉多めで作っておくと、解凍の手間を乗り越える気力が生まれる。解凍はジップロックごとレンジに放り込むことはできない。一度、皿に移してからラップをかけてレンジでチン。いや、最近のレンジはチンとか鳴らない。いつの時代のレンジだ。ともかく一手間かかるから面倒。面倒ついでに冷凍ブロッコリーや冷凍カリフラワーなど加えても嵩が増えてよかった。
ルウはホワイトシチュー系が気に入っている。特に、ハウスのシチューオンライスはすばらしい。飯のおかずになるシチュー。材料にジャガイモが想定されていない点もすばらしい。
じゃあカレー作れよと、誰もが思うだろう。しかし、カレーだけは作ってはならない。自炊の大敵がカレー。なぜならば、カレーはほぼ完成形といえるボンカレーが存在するから。作るよりボンカレー。
デザインは力、薬師寺三重塔
その2018年となりましたが既に半月以上経過している今日。薬師寺三重塔へ参りましょう。
これがデザインの力というものです、と挙げたい薬師寺三重塔。伝統的建造物なんざ伝統にとらわれた画一的な建物じゃないか、現代の多様なデザインの氾濫こそ至高などと寝ぼけたことを言ってはいけない。当時の限られた技術と手法のなかで、最大限に趣向をこらした結果に刮目せよ。
じゃあ、どのへんが違うのか。
薬師寺西塔。1980年代の再建。再建当時はカラーリングがギラギラしていると批判された。これでも控えめな色調としたらしい。古代の色彩の好みはギラギラ系だと知られてきて、他がもうギランギランな復元案をばしばし提示している現在では、むしろ地味に見える。
屋根を数えて、どこが三重塔なの、屋根は六層あるよね、と思うよな。これが、そもそもデザインなの。五重にしないで五重並みの高さをキープしようとしたら間延びする。そこを「裳階(もこし)」で埋めて、バランスよく屋根を配置している。技術的にも出来ることは限られていたはずで、そのなかで美しい形を希求した結果ではなかろうか、と。そのように考えたいところ。
裳階はそんなわけで、宙に浮いた裳階なのだ。基壇(地面直上の石積部分)の上が初重の裳階と屋根、その上に初重の屋根。次が二重目の裳階と屋根で、その上に二重目の屋根。次に最上の三重目の裳階と屋根、そして三重目の屋根。各重が裳階の腹巻きを巻いているような状態。よーく見ると、各層の下にカゴ状に裳階がぶら下がっているように見えて違和感があるかもしれない。
そして、我々は全裳階付の塔は薬師寺三重塔しか知らない。これを古代のスタンダードだと思ってみてしまう。だが、建設年代が比較的近いと考えられている法隆寺五重塔と比較しても、もうぜんぜん違う。
現代なら、例えば電通本社ビルと、森ビル。どちらもガラスのカーテンウォールで似たようなビルだ。似てはいるが、現代の目からはぜんぜん違う意匠の、違うビルだとわかる。しかし、1000年過ぎて、壁面の一部を写した写真をぱっと見て区別がつくだろうか?
区別がつくのは、一部のマニアだけだろう。古代の塔も、たぶん、そんな感じなのだ。
再建された西塔の写真ばかり挙げている理由は、以前にも述べたとおり。観に行った時は東塔が解体修理中だったから。
薬師寺南門から眺める境内。左が西塔、右が東塔。東西南北を意識した配置。
覆屋はかなりボリュームがある。最寄り駅の近鉄西ノ京駅から降りてすぐに、遠くに見えてくるほどだ。
平成32年に東塔の修理が終了の予定ということなので、また再訪したい。年号は平成じゃないだろうけどな。
さて、塔以外の見るべき物ということで、もうひとつ目的があった。
これまた、ちゃんとした写真がどうしても見当たらないパターン。当然のように、回廊から至近距離に建っていた。超広角レンズでなんとか全体が撮れる。
鎌倉時代の再建建物を江戸時代に向きを変えたとの説明がある。いわゆる「日本の建築」らしい要素が凝集されたような建物の典型例とされるが、伽藍の中ではなんだか微妙な気もする。ここと、ここと、ここ、と細部の価値を説明されないと、この建物の意義はわかりにくい。つらい。
こちらは昭和に再建された薬師寺金堂。現在の薬師寺が目指している空間は、なんといっても白鳳時代の伽藍なのだ。よく見ると、塔の意匠に合わせたものか、一層と二層にそれぞれ裳階がある。
白鳳伽藍は現在も着々と再建が続けられている。食堂(じきどう)の再建を示す看板。
しばらく五重塔から離れていたが、再建される白鳳伽藍からの連想で、模造というかインスパイア系というか、次回はそういう五重塔を紹介してみたい。
薬師寺への道は続く、来年に。
塔を巡る冒険の続き、薬師寺の回、年内の更新が間に合いませんでした。でも更新はする。
解体修理中のため、しばらくこの姿だった東塔。
屋根は六重だが、これで三重。詳しい話は来年更新することにした。
開けた空間が古代っぽい。この広い空間が大陸風なのではないかと思う。(追記20180113:金堂ではなくて大講堂。修正した。)
そんなこんなで今年、2017年は終わりつつある。
たぶん来年は薬師寺からはじめる。
2017年のイチ推しといっても、他にいろいろ観たわけでない。「ブレードランナー2049」はよかった。それで『ティモシーアーチャーの転生』をわざわざ買ったが半分も読み切れていない。これこそ年内に読み切りたい。
で、薬師寺三重塔は、オリジナルの「ブレードランナー」に相当するインパクトを後世の塔デザインに残したはずなのだ。そんな話は、また来年。
ことしもおわりがみえてきた
今週のお題「今年中にやっておきたいこと」
塔を巡る冒険の書、あと1回、薬師寺まで更新してから今年を仕舞いにしたい。
本文は書きかけているのです。たぶん更新できる状態なのです。写真を片付けていない。片付ける余裕がない。
実際は2015年に出掛けている。2015年に書いていた記事はこちら。
waterway.hatenablog.jp1記事に1枚しか写真がない。何をやっとんのや。
2年も写真を片付けていないらしい。カメラのカードから、ハードディスクへデータを移動させているだけでも自分を誉めたい。薬師寺の写真片付けと合わせて、そろそろデジカメのデータ保存メディアの整理もしておきたい。
ともかくも、年内に写真を片付けたい。
年内に限らず、ずっと写真を片付けるためにブログ更新するつもりが、90日間更新していないとか、このままではいかんでしょう。