黄金の瀬戸内海、向上寺三重塔。
JR三原駅、隆景広場として整備された一角の銅像。「小早川隆景公之像」、ピントが合っていないのか読めない。昭和の夢、瀬戸田耕三寺から船で移動した先は三原。その船に乗る前、瀬戸田港までの道中でたずねた先が向上寺三重塔。
昭和の夢から一転、中世瀬戸内海の繁栄を垣間見るわけです。国宝向上寺三重塔。15世紀に小早川氏も建立に関与したとされる、贅を尽くした最新流行スペシャル仕様の三重塔。
どのへんがスペシャルなのか、と細かい説明。ざっくりと、和様(わよう)と唐様(からよう)が共存していることが特色とされている。唐様は現在は禅宗様(ぜんしゅうよう)と呼ばれる、禅宗寺院に特徴的な様式。建築様式については、大仏様(だいぶつよう)の希少な遺構である浄土寺浄土寺をたずねたくだりで少し触れている。
向上寺三重塔の様式フュージョンがどう凄いかといえば、こう、すごい。
周囲の樹々で引きがとれないばかりに、また超広角レンズで無理矢理な写真。でだ、軒下をご覧いただきたい。軒下の垂木。初重は扇垂木で、端までの垂木が扇の骨のように開いている。これは禅宗様や大仏様に特徴的な手法だ。対して二重からの垂木は並行垂木であり、端まで等間隔に並行に並んでいる。よくよく見れば、組物の装飾も特徴的で細かい*1
往時にはこの三重塔に相当する規模の伽藍が繁栄していたとされるが、その後の時代を経て現存する建物としてはこの三重塔のみが境内に残る。
平成15年に伽藍復興への寄進を募る看板。2017年に訪れた際の写真であるから、15年から16年前の看板ということになるのか。その後、この復興運動によるものか、2010年に本堂が再建されている。今回写真を片付けていて、看板の設置当時の住職の方が「小早川」姓とはじめて気付いた。驚いた。
前回の耕三寺から趣のある選択の結果、案内地蔵が続く道をたどってみた。かの平山郁夫画伯がスケッチをされたという山道らしい。
そこそこ整備された山道をさくさく歩いてゆくと、ようやく塔の本体部分が見えてきた。どうやら、山を登り、向上寺境内の奥からアプローチしてきたらしい。
向上寺正門から塔へ向かうには、この石段を登ることになる。どちらがマシか、という話なのだが、山道のほうが距離はあるが傾斜は緩い。石段は直登ルートなので傾斜はキツいが距離は短い。どちらにしても山が低くなるわけでも、塔が近くなるわけでもない。物理的な問題に変わりはない。
案内地蔵が設けられて推奨ルートとされているのは、高名な画家のスケッチ対象とされた風光明媚な景色と、散策に適した山道ではある。
元のデザインとしてはどうだったのか。おそらくは島の外からも塔が見えるように周辺の樹木は伐採されていたのではないだろうか。門の側から境内へ向かえば、石段の上に塔が現れるという劇的なデザインではなかろうかと想像してしまう。しかし、実際には樹々に遮られてしまい、朱色の塔の本来のインパクトは想像でしか偲ばれない。
船から見えるはず、と目を凝らしていたところ、見える、見えるぞ。三重塔の本体部分がちらっと見える。地図で確認すれば、なんとこれ以上なく港からの船にアピールする配置である。考えての、この配置であろう。
向上寺から港へ向かう道は、恵比寿神社の参道へ続いていた。向上寺に堂于が立ち並ぶ時代の瀬戸内はどれほど経済的に繁栄していたことだろうとか考えてしまう。
恵比寿神社参道入口の石柱は天保年間と江戸時代の年号が認められる。神社が江戸時代にも相当の信仰を集めていたすれば、それなりの経済力が近世まで継続したことだろう。中世交易都市の繁栄といえば堺や博多が知られるが、瀬戸内海の一部に残る塔をしてこれだけのレベルである。堺から博多へは、主に瀬戸内海を経る航路が用いられていた。黄金の日々と聞けば自動的に堺が連想される世代も限られてきたかもしれないが、そんな黄金の中世も瀬戸内海あっての繁栄であろう*2
瀬戸田港からはちょうどよい時間で乗れた三原行きの船に乗る。船室のシートはやけに年期が入って見えるが、見覚えがあるようなデザインでもある。意外に新しいのかもしれない。
晴れた空、白い雲、島に囲まれた海。船は小型とはいえ揺れも少ない。超快適。いいね、船旅。
三原城の天守台をぐるっと見学して、さて、このままJRで博多まで移動する行程。もちろん青春18切符利用。
三原城といえば小早川氏であるが、小早川氏といえば毛利氏。毛利氏といえば大内氏、という連想を無理につなげて、次は博多で五重塔なのである。