八坂の塔からはじめる五重塔コレクション
八坂の塔こと、法観寺五重塔。細い坂道を登った先に塔。平安京以前から位置していたとされるだけに、聖徳太子開山説も伴うらしい。
高台寺へ向かう途中で振り返ると、ひときわ高い塔が目に入る。東寺(教王護国寺)五重塔と並ぶ「京都らしさ」の象徴だろう。
今年の京都はそこらじゅうに浴衣レンタルが展開されていて驚いた。皆々、浴衣で京都の町を楽しんでいるようだ。
この狭い坂道へ人力車も入ってくる。浴衣の人々とあわせて、観光的には楽しい風景だ。夏は浴衣でも暑そう。
ところで、冬はどうするのだろう。調べたら、着物レンタルだそうです。それはそうだ。
拝観は夕方の早い時間までということで、今回は内部に入っていない。塔の内部まで拝観できる数少ない例なのだそうだ。残念。
やや幅の広い道に面しているとはいえ、巨大な塔が狭い境内に押込められているように見える。塔は15世紀の再建らしい。元は広い境内が存在していたのかもしれないが、よくわからない。
金箔の入ったソフトクリームが名物なのか、この広場で食べている人が目についた。
平城京から長岡京を経て、平安京の内部に計画された寺院は、南の端に位置する東寺と西寺だけだったらしい。平城京までは薬師寺をはじめ、現在の元興寺など、主な寺院も遷都に従ったが、平安京は都の内から寺院を基本は排除。政治的にクリーンな新しい都市を目指したらしい。
東寺は教王護国寺として現在も境内がそれなりに継続しているから、あのあたりが平安京の南端に当たるはず。西寺は唐橋西寺公園内に西寺跡として位置がわかる。東寺と西寺跡は、平安京の南北の中心、朱雀大路に対応する現在の千本通を軸として、東西ほぼ対称の位置にある。
じゃあ、京都にやまほどある寺院、あれは何だ、と思う。思うよね。
法観寺も、清水寺も、平安京以前に起源が遡るとされる。いづれも、平安京の範囲と現在の地図を比べると、ほぼほぼ東側の外。ずばり東山殿と呼ばれる慈照寺*1も、平安京の外だ。北山殿こと鹿苑寺*2も、平安京の北側の外だ。
現在の京都市街中心部を四条河原町あたりととらえると、平安京の状態から比較して、町の中心がかなり東側へ移動しているのだろう。中心軸に対応する千本通は、二条城よりも西側に位置している*3繁華街の中心に寺院が集中しているようなイメージは、現在の繁華街が東の端へ寄っているだけで、元は都の外側の郊外だったわけだ。
平安京の内部に対応する位置に、現在分布している寺院については、また別の話として、京都の町といえばお寺というイメージも、平安京の時代から考えるとかなり新しいものなのかもしれない。
駿府城はハンバーグ
丸くてじゅわじゅわのハンバーグ、静岡の至宝と詠われるハンバーグ。「さわやか」のハンバーグのためなら青春18きっぷを1コマ消費することも厭わない。
昨年のハンバーグの記録。
そんなこんなで、今年も「さわやか」で丸いハンバーグをおいしくいただいた。今年は、しかし、ひと味違う。行程に余裕を持って、駿府城を詣でたのだ。「さわやか」の待ち時間が長かったともいえるが、ともかくも駿府城も目的地なのだ。
いきなり、駿府城をたずねた弥次さん、喜多さんの銅像に迎えられる。東海道中ではある。確かに。なるほど。
気をとり直して先を急ごう。
どん。
わさびの記念碑かと思えば、わさび漬の記念碑だ。メインは上の巨大わさびではなく、下の樽らしい。わさび漬に発祥の地があったのか。なるほど。絵面としては、巨大わさびを重しに漬けられるわさび漬。なぜこの姿になったのか、製作した人は何を思ったのか、疑問は尽きない。台座の説明によれば、昭和43(1968)年に、明治百年を記念して静岡県山葵漬工業共同組合によって設置されたらしい。
道を挟んで向こう側には、近代風の建物に瓦屋根。いわゆる帝冠様式。名のある建物に相違あるまい。後で調べたら静岡県庁舎本館。登録有形文化財とのことで、昭和12(1937)年の建物らしい。約80年経過しているということは、大阪城天守閣といい勝負か。なるほど。
ようやく城内に入ると、「家康公お手植えのミカン」なる一角。ミカンの木がこんもり集まっている。
ミカンの木は、実際は厳重なフェンスにガードされている。案内板によると昭和25年に静岡県天然記念物に指定されているらしい。案内板は「家康手植えのミカン」表記。静岡といえば、ミカン。なるほど。
ミカンの近くには、鷹を従えた「徳川家康公之像」。静岡といえば徳川家。なるほど。
そろそろハンバーグの予定が迫る。というわけで、駿府城周辺には静岡が詰まっている。駿府城の南東に隣接する新静岡駅ビル「cenova」の「さわやか」へ移動しよう。
もちろん、城らしい写真も撮ってある。
駿府城巽櫓と堀を背景に、ハト。人慣れしている。
あと一歩、近づくと飛んでゆかれた。
城以外の諸々が印象的だった駿府城。ハンバーグと合わせて楽しめること請け合いである。2時間待ちと告げられてもcenova店なら大丈夫。JR静岡駅から余裕で徒歩圏内でもある。
あのすばらしいマウスをもういちど
だいたい1年前にマウスが壊れた、USBハブが壊れたと大騒ぎしていた。
粛々と、また、マウスが壊れる時期が来た。横着してマウスの買い替えをケチったことが原因だ。「古のまだ動作するマウスの祠(気に入らなかったマウスを放り込んである箱)」から召還したマウスが寿命を迎えただけのことだ。
マウスの最後はこんなふうにはじまる。まず、右クリックが効かなくなる。押したはずの右スイッチの反応が鈍い。ゴミでも詰まったかと掃除してみるが、鈍い反応はそのまま。次にカーソルが飛ぶ。センサーにゴミでも詰まったかと掃除してみるが、カーソルは挙動不審。
やれやれ、また寿命がきたらしい、と、このあたりで諦める。「古のまだ動作するマウスの祠」からマシな個体を引っ張り出してきて、とりあえずこれでなんとかする。
そして、なんとかならずに、また右クリックの不具合ループへ。なお、このまま不具合マウスを使い続けると左スイッチが反応しなくなる。どうやら、現在の使用環境では約1年でスイッチの寿命が来てしまうようだ。道理で「マウスの墓場」(デザインが気に入っているから壊れていても捨てないマウスが放り込んである箱)にもマウスが貯まってゆくはずだ。
買い替えのタイミングが来る度に、ああ、もう一度あのマウスが発売されてくれないだろうかと思うマウスがある。エレコム「LUNARIS VARIABLE USB M-LUBシリーズ M-LUV」だ。
エレコムの製品紹介ページは残されているが写真はない。
ファンも多かったようで、「ルナリス マウス」で検索するとそれなりに綴られた思い出が並ぶ。まだ光学式ではなくて、ボール式だったころのマウスだ。残念なことに、発売当時の仕様ではスクロールホイールが無い。
ルナリスはマウス本体下部のダイアルを操作することで、dpiの変更ができるという特徴があった。デザインのアクセントにもなっている本体下部全体のダイアルは、マウスを使用しながら掴んでまわすことができる。
画像検索して描いてみたルナリスのマウス。白色(オフホワイトっぽい白)と黒色があったらしい。dpi可変ダイアルの上が盛り上がったデザインで、ここがちょうど親指を乗せて操作する位置になる。
背中の特徴的なスリットから気がつく方もいるだろうし、詳しい方は周知のとおり、かつてのApple Macintoshのデザインを担当したことで知られるフロッグデザインが手がけている。あらためて今、見直しても古びていないデザインだと思う。
捨てていなければ、「マウスの墓場」に今でもあるかもしれない。いや、スイッチはおかしくなっていたから、捨てたかもしらん。
懐かしがっていても仕方がないので、またヨドバシでマウスが茂る通路をうろうろしてくることにする。
ひかりさすこの世の果て、浄土寺浄土堂へ。
青春18きっぷの旅2017年は兵庫県小野市を目指すことにした。そこに何があるかといえば、大仏様(だいぶつよう)を代表する建築、浄土寺浄土堂がある。
全ての道はイオンに通ず
浄土寺浄土堂をたずねるにあたって、先ずは交通手段の確保。検索してもアクセスの厳しさを挙げる記事や、結果として自家用車やタクシー利用の記事ばかりであまり参考にならなかった。公共交通機関利用でクリアしたからには、なんかしら記録しておこう。
幸いなことに、コミュニティバスが運行している。必須情報のコミュニティバス「らんらんバス」時刻表と路線図はこちらから。
北播磨総合医療センター、電鉄小野駅、そしてイオンがコミュニティバスの路線を統べている様が見て取れる。病院とJRへの接続と並んで重視されるイオン。
電鉄小野駅は神戸電鉄粟生(あお)線の駅で、JRとは粟生で接続しているため、粟生までは青春18きっぷが利用できる。ここから先が問題で、コミュニティバスのバス停「浄土寺」を経由する午前中のバスは、電鉄小野駅発7時台の一本。いやいや、前日の宿からは無理だ。別ルートで歩くか、電鉄小野駅から徒歩40分をがんばるか、暗い気持ちになるが路線図にはイオンがある。
イオンを経由すれば、適当な時間に移動できるのではないか。料金は乗り換え分必要になるとはいえ、レンタカーやタクシーをチャーターすることを考えれば問題にならない。しばらく時刻表と睨み合い、どうやらイオン営業時間内にイオンで接続するバスを見つけることができた。30分ほどイオンで待機することになる。
数人がぱらぱら乗降する小さな駅で降り、何も無い駅前でバスを待つ。本当にバスは来るのか。
そしてやってきたバスはワゴン車的なバスだった。バスと主張しているから、バスなのだ。イオンが近づくにつれ、それなりに乗客がある。「最寄り駅から徒歩40分(推定実質60分以上)」炎天下この世の果て行軍を避けられるのは、イオンのおかげ。料金は100円(乗車1回ごと、2017年9月現在)と、なんだか申し訳なくなる金額。
公共交通機関の利便性に関して、国宝よりイオンの存在がカギを握るあたり、イオンの存在意義について考えさせられる。イオンすごい。しかし、イオンの建築は後世に残らないであろう。未来の歴史はイオンを正しく評価できるのだろうか。まあ、知らんがな。
浄土まであと何マイル?
イオンでパンなど適当な朝食をとりつつ、乗り継ぎのバスを待つ。派手な外観のバスにひるむが、この派手さはかなり重要だ。乗り過ごすとたいへんなことになるが、これだけ派手なデザインであればバス停で待つ際に見落としにくい。
バスはひたすら緑の木々と緑の水田のあいだを進む。知らない道を、知らない風景のなかをひたすら運ばれてゆく。ほぼ貸切。本当はどこへ向かっているのだろう。西方浄土へのお迎えもこんなものかもしれない。
いよいよ、到着。それなりに参拝客がおとずれるためか、客待ちのタクシーもやってくる。奥の屋根が浄土堂。右側の施設にトイレと自動販売機、それと休業中だったが喫茶か食堂のような場所があったらしい。
バスが去って行くと、取り残された気がしてくる。帰りのバスの時間を忘れないようにしないと。帰りは、通る自動車もまばらな、何も無いアスファルトのフチでバスを待つことになったわけだが、陽炎の向こうにド派手なバスが見えたときの安堵感ときたらたいへんなものだった。来たぜ、らんらんバス、見間違えようがない。
見ろ、これが浄土だ
堂内の解説図に詳しいが、自然光を駆使した光の魔術により、天井から阿弥陀三尊像に光が降り注ぐ設計とされる。実際に午前中から午後まで堂内を何度か出入りしたが、刻々と移り変わる光の加減に幻惑される空間なのだ。ほぼ正方形平面のお堂は、阿弥陀三尊像を絶妙な光源であたかも浄土から来迎するかのように魅せるためだけに設計されている、と言っても過言ではなかろう。
受付の方のお話では、夏至の頃の太陽の角度が効果的とのこと。できれば夏に、もっとも暑い時期にたずねると浄土が見えるらしい。なお、堂内は撮影禁止。12時から13時は昼休みのようで、堂内見学は休止。
記憶を頼りに描いてみた、堂内光の魔術の解説図(いずれ差換えるかもしれない)。浄土堂背面から光が射し込み、金雲に乗った阿弥陀如来像と両脇侍像の背面の床に反射して天井へ光が廻り、さらに像の正面側から射す光となる、と説明された。太陽の動きに従い、光は刻々と変化する。
実際の背面には、ずらっと蔀戸(しとみど)が並んでいる。ここから光を取り込む設計。
浄土寺浄土堂とは何か
そのような経緯で到達した浄土寺浄土堂の外観。超高コストな写真である。写真なんてシャッター押すだけとか、とんでもない。シャッター押すまでが本番だということがおわかりいただけるだろうか。なお、正面からのしっかりした写真が写真集などで紹介される際にも見かけないと思ったら、案の定、超広角レンズを用いないかぎり引きが取れない配置だった。こういうことはよくある。
全面の扉の彩色がはげはげしい。昭和33(1958)年に解体修理された直後の写真では朱色に輝いていた。ざっと60年近く風雨にさらされた結果のようだ。
例の超広角お手軽レンズ(オリンパス・フィッシュアイボディキャップレンズBCL-0980)で撮影し、Photoshopで補正した浄土寺浄土堂正面のイケてる写真。上の写真と比較するとレンズ性能の違いが出過ぎてつらいが、雰囲気は伝わるだろうか。
浄土寺浄土堂は「大仏様(だいぶつよう)」の様式名称が示すとおり、奈良東大寺大仏殿との密接な関係が知られる。戦火に包まれた南都奈良で、東大寺大仏殿は灰燼と帰した。再建総合プロデューサーとしての活躍が知られる重源(ちょうげん)は、東大寺播磨別所であった浄土寺一帯で資材調達を行ったとされる。背景として、当時の京都や奈良ではもう桧の良材が枯渇しつつあったからだろうと考えられている。
東大寺大仏殿再建に際して採用された革新的な技術が「大仏様(だいぶつよう)」と呼ばれる特徴を備えた様式であった。現在の奈良東大寺大仏殿は江戸時代の再建であり、技術的な面影はあれど鎌倉時代の様式ではない。浄土寺浄土堂は、東大寺南大門と並ぶ「大仏様」の建築としては数少ない現存事例として知られる。
難しい話はともかく、当時の福建省周辺で用いられていた技術じゃないかと考えられている新しい技術「大仏様」は、後の時代の建築に多大な影響を残したとされる。細かい説明をさらに端折ると、大仏殿のような巨大な空間を建設する場合に材料もコストも節約できる優れた手法であったようだ。トランジスタラジオのようなものなのだ。
浄土寺浄土堂は、技術的にはトランジスタラジオのプロトタイプ実機が稼働しているようなものだ。しかも、当時最新流行のVR空間を、恐ろしいことに、ほぼそのまま体験できる。時空を超えて、当時の番組を録音ではなく、聴取できるようなもの、とは言い過ぎだろうか。
これがたった500円(2017年9月現在)、ワンコインで体験できるのだ。なんという贅沢だろう。
細かい話も少し捕捉しておこう。上の写真の組物(くみもの/軒を支えている持送り構造)を例とすると、柱の途中に差し込まれた部材「挿肘木(さしひじき)」が大仏様の特徴のひとつとされる。柱に正しく位置を決めて臍(ほぞ)を開け、部材を組み立てるという手順を考えると、かなり難易度が高い技術であることを想像できると思う。*2
右側の格子戸は蔀戸(しとみど)。背面の採光部の説明でも示した。上半分を持ち上げて、左側の軒から下がっている金具に懸けて開ける建具。あちこちの寺院や、京都御所などで目にされたことがあるかもしれない。
軒の下に見える部材の端(木鼻)に装飾的な曲線を用いる手法も、大仏様の特徴とされる。また、軒の垂木(たるき)の端が板で覆われている様子も写っているが、これが「鼻隠板(はなかくしいた)」である。軒の垂木の末端を美しく並べることに腐心してきた経緯を投げやり、板で隠してしまえばいいじゃんとばかりの力強い解決だ。つよい。
垂木が扇状に開く配置も大仏様の特徴のひとつとされる。しかもこの扇垂木、軒先でのピッチを揃えるために小癪なまでの工夫がこらされている。そこまでやるか、と唸ってしまった。堂内撮影禁止のため、具体的に示すことが難しいが、隅の垂木ピッチを維持するために、その部分だけ別の垂木を途中から加えている。文字で表現しようとするともどかしい。ざっくり組まれた部材のなかに、そんな妙に繊細な部分が認められると、ギャップに驚かされる。
浄土寺浄土堂正面に配置されている解説板。建築年代など、詳しい説明がある。ただし「大仏様」のかわりに「天竺様(てんじくよう)」の様式名称が用いられている点は注意していただきたい。かつては「大仏様」を「天竺様」と称していた名残である。なぜ「天竺」なのかといえば、他に組物の様式として「和様(わよう)」「唐様(からよう)」があり、それぞれ日本、中国を指すことから三国セットで「天竺様」と名付けられたらしい。伝統的な「三国」とは中国(唐)、インド(天竺)、日本を指すそうだ。
ともかく、様式はインド(天竺)関係ないやん、ということで現在は実態に即して、それぞれ「和様」「大仏様」「禅宗様」の名称が用いられている*3
初見では、もちろん「てんじくさま」だの「だいぶつさま」だのと読んでいたので、ちゃんとふりがなを加えておいた。
などといった蘊蓄はともかく、天井がなく太い構造材がそのまま意匠となっている内部空間と、光を操る魔術に感嘆すべきなのである。文化財としての価値や、歴史的な価値の理解は後回しにしても、ともかく体感すべきなのだ。
次はどこへ行こうか
体感できる日本三大浄土(私選)をコンプリートしたからには、次の目標を定めなくてはならない。物理的アクセスが難しい三大難攻不落物件(私選)も、浄土寺浄土堂をたずねたことで、あと一ヶ所を残すのみなのである。
なんといっても、難攻不落ぶりが突出した存在として高名を馳せる「三仏寺投入堂」が未踏なのだ。近年は単独行は許されず、入山口で同行者を求めるか、2人以上で向かうほかないらしい。数年前に鳥取まで行きながら、日程を確保できずあきらめた「三仏寺投入堂」。次こそは三大難攻不落物件(私選)のコンプを目指したい。
三大(中略)(私選)というからには、あと一ヶ所はどこか。「佐敷ようどれ」を挙げておきたい*4
異論は認める。
この世の果てのその先へ
オリジナルを参照しつつ、16世紀に再建された建物。面影はある、といえばある(建築年代を勘違いしていたので修正)。
鎌倉時代に建設されたオリジナル。
体感できる日本三大浄土(私選)を数年越しでコンプリートした。特に、今回たずねた先が最後の一ヶ所だったが、噂に違わずアクセスが厳しかった。もちろん国内で、道路も整備されていて、何も行く手を阻むものはない。
公共交通機関以外の手段であれば。
道はどこまでも続くし、行きたいところへ行ける。
公共交通機関以外の手段であれば。
コミュニティバスを駆使し、炎天下でリアル浄土に近づいたあの日。堂内の光景も、まさに浄土。鎌倉時代のVR。端的に言って昔の人はおかしい。なぜこれを実現しようと思ったのか。そして実現してしまったのか。
大仏様(だいぶつよう)の数少ない現存事例として有名な「浄土寺浄土堂」へ行ってきた。詳細は、そのうちまとめる予定。
ちなみに体感できる日本三大浄土(私選)は平等院鳳凰堂、浄土寺浄土堂、中尊寺金色堂。この世ではない美しい世界を、当時の技術で可能な限り実体験させるVR装置だったはずだ。PS4の性能に慣れた目にはPS1のグラフィックが今はショボく見えてしまうとしても、当時は驚嘆したではないか。そういうものだ。