男女の双子のモチーフで締めくくられた映画「ブレードランナー2049」。最後の5分ほどで、奇跡の顕現たる「こども」の存在を物語の中で慎重に隠したように、映画「ブレードランナー」の続編として提示されてはいるが、別の物語の映画化であることを巧妙に隠しているのかもしれないと感じた。
「こども」が前作「ブレードランナー」の回答だとする解説も多い。その解釈も成立つだろう。
しかし、全てが幻影で確かな現実など手にしたことがなかったと、あれほど「K」を打ちのめしておいて、映画だけは強固に「ブレードランナー」だと信じてよいのだろうか。観客もまた、「ブレードランナー」を観てなどいないのではないか。
前作の監督のコメントにも注意しておきたい。「もう、たくさんだ」というのだ。雨に塗れた路地裏も、けばけばしいネオンサインも。SFは「ブレードランナー」に汚染されきっているし、未来はシド・ミードが描く姿が最適解だと疑われず、ディックは新しい世界をSFにもたらしてはくれたけれど、この閉塞感は何だろう。
というのも、映画冒頭を期待せずに眺めている間、頭から離れなかったものはゲーム「Fallout4」の画面だったからなのだ*1。夥しいスクラップも、雨に濡れた未来も、廃墟も、もうゲーム画面にしか見えなくなってくる。孤児院の入口に転がるオイル缶など、「取る」の表示を探してしまうような配置だったではないか。
ウォレスとデッカードの対面において、レイチェルとの出会いも仕組まれたものかもしれないと揺さぶりをかけられていた。いくつかのシーンで、画面のなかの主人公が、観客によって操作される対象であることを連想させられるのだ。全てが何かによって操作された結果、というモチーフも各評論の指摘どおりディックの作品に散見される。
観客、つまり自分も「ブレードランナー」を主体的に観に来ているはずなのだが、これは「ブレードランナー」ではなく、観客もまた操作されて映画に「出会って」いるとしたら*2。
そして最後の5分がやってくる。観客も、奇跡に立ち会うことになる。Kと奇跡のこどもは記憶の双子として描かれる*3。
いかにも前作の回答のように、新しい時代への期待のようであるが、何も救いは描かれていない。解決はしていないのだ。ディックの作品のほとんどすべてが、何も解決せずに終わる。そして、続編を作るならば可能となる様々な、意図的にあけられた「孔」。
現在のSF的イメージの源泉となったディック。「ブレードランナー」によって映像としてのSFにとっても神に等しい存在になったディック。だが、いずれ映画界は新しい神を必要とする。
特に強く連想させられた作品は、最晩年の「ヴァリス」三部作である。どのモチーフが対応しているか、具体的な検証はこれから読み直してみてからとなるが、「聖なる侵入」はかなり直接的な下敷きではないかと考えている。共通するモチーフは神秘体験からの神の再生*4。
そんなことを考えながら、詳しいわけでもないので、誰か詳しい人が「ヴァリス」三部作との関連を何か論じて解説してくれないものかと、あくまで人の力をあてにするために記事にしてみた。
「ブレードランナー」を観に行ったが、「ブレードランナー」ではなかったのだろうとは思う。分散されたP.K.ディックを探す映画なのかもしれない。
今週のお題「芸術の秋」
新訳が出た、といっても『ティモシーアーチャーの転生』が2015年。まったく視界に入っていない。旧訳の『ヴァリス』は創元文庫版だったことも今更確認した。せっかくなので新訳版で読み直してみたい。